* 昔、香港に住んでいた頃のお話・・Once Upon a Time in Hong Kong・・
本日は少々趣向を変えて、当方の話を・・(笑)
昔、香港に住んでいた頃のことをお話します。まだ中学生上がりたての頃(笑)、父の仕事の関係で香港に赴任になり、家族総出で引っ越したのです・・1960年代中盤辺りでしょうか。
↑「香港」と言うのは、皆様ご存知の通り現在は中国ですが、上のGoogle Mapのとおり正しくは「香港島」と述べたほうが分かり易いでしょうか・・とは言っても、実際は当時はまだ
「英国統治領の植民地」だったので「フラッグの下、世界に大英帝国を!」の如く、20世紀なのに植民地が残っていました (21世紀になってもまだ世界中に植民地が残っていますが)(笑)
現実には当時は中国大陸側までが「香港」として扱われていて、中国との国境が延々と鉄条網と監視所で続き遮られていました (上のGoogleMapで香港と書かれている辺りまでが英国植民地だった/実際に見学に行ったから知っている/ちゃんと中国人民軍が小銃担いでいた)。
当時私が住んでいたのは上の図で赤色矢印の場所になり、ちょうど香港島に唯一存在していた「競馬場」のすぐ隣接でした。当時からしてマンション街が立ち並んでいましたが、その一つを会社が借りていたのでしょう (ワリと当時はこの競馬場辺りは中流階級向けのマンション街だった)。
現地住所で言うと「雲地利道 雲暉大廈」と言うのが住まっていたマンションの通り名と棟名です・・広東語で「ワンデリレイトー ワンファイタイハ~」と最後の語尾を伸ばす独特な発音です(笑) ジャッキーチェンなんかの映画で広東語を聞いてみれば、そのイントネーションが理解できます(笑)
ブルー色の矢印で指し示している箇所に「旧日本人学校小学部校舎」があり、毎日通っていましたが、校舎とは言え実際は「普通の雑居ビルの2階と3階を借り上げて教室やホールにしていた」だけの話です。
現在も、いまだに香港や中国本土ではそういう雑居ビルの一角に学校校舎の機能を持たせて
借り上げている事が多いようです。
小学校に通っていたのは、当時中学部が新規創設されたばかりで中学生用の教室がなかった
からです (小学生用の教室を一つ開けてもらい使っていた)(笑)
通うにも日本 (内地) と同じように子供達だけで通うのは相当に危険だったので、当然ながら
スクールバスによる送迎です。いわゆる米国製映画などに頻繁に登場する「オールイエローのボンネットバス」ではなく(笑)、香港では今現在もミニバスです (15人くらい乗ると満席)。運転席にドア開閉レバーがでかい棒状でついていて、それを運転手が操作しなければ、どんなに扉を叩こうが何しようが開きません (安全のためにそうなっている)。
さらに当時はショットガン片手の警備員も1人 (現地人の広東人) 乗っていましたね・・皆が
からかって話そうとするとパシッと叩かれます(笑) そのくらい治安が悪い時代でした。
さらにグリーン色の矢印で指し示した場所には有名な「スターフェリー」と言う中国本土側と香港側を結ぶ民生のフェリーが往来しています (今現在も運行し続けています)。
↑wikiから拝借した写真ですが(笑)、こんな感じの「グリーンとホワイトに当時から塗られたフェリー」が行ったり来たり、凡そ20分位の間隔で往来しています (発車時刻まで含めればの話で海上輸送時間は10分弱くらいと言う短時間)。
このフェリー、簡素ながらもよくできていて1900年代初頭の完成らしいですが、操舵室は2階の中央に在って、前方と後方は切替器で変更するだけで「船の喫水線下前後に舵とスクリューを装備している」前後両方向に進行できる優れモノです(笑)
船はご覧のように楕円を描いたカタチで船体周囲に強化ラバーが張り巡らされていて「平気でゴツンゴッツンと桟橋にぶつける」から結構ボロボロだったのを覚えていますが、操船の上手い船長のほうがやはり格付けが高く、同僚からも敬いられていたようです (要は給料が高かっただけの話)(笑)
・・とっても懐かしいです!(涙)
↑上の写真は香港島側のスターフェリー発着所です。台座は桟橋なのですが、昔は木材だったものの近代はコンクリート製に変わったようです。
この桟橋が何本も突出していて、その両側にスターフェリーが発着します。従って船の方も「左右両舷から退船できる柵作り」になっていましたね(笑)
↑スターフェリーから香港島側を眺めるとこんな感じに映りますが、実は私が住んでいた時代はようやく経済成長が始まった頃で (もちろん英国統治領のままですが) 赤色矢印で指し示した「貿易センタービル」だけがいきなり突っ立っていた時代です(笑)
今でこそ、、2倍以上もある高層ビル群が所狭しと隣接していますが、当時は平坦と言うか、ゆるい緩斜面の島の平地にズドン!と1本だけ突っ立っていたのをハッキリ覚えています。
屋上部分に巨大な傘があるのですが (台形部分)、まだその数階下部分に足場が組まれていて
建設中だったと思います。突然上階層の外側に足場が組まれて作業しているのを見て、香港でそのような建設技術って大丈夫なのかぁ~???と思っのを覚えています(笑)
と言うのも、当時はまだまだ下町の脇道などで違法コピーしたカセットテープが所狭しと積み重ねられて売られていた時代で(笑)、流れている曲もビートルズが中心だったりします (よく
買いに行っていた)(笑)
つい先日、ジョン・レノンが生前にカセットテープに残していた曲「NOW AND THEN」にAI技術を駆使して曲を完成させて発売されましたが(驚) 流行り真っ盛りの時代です(笑)
そう言う下町の脇道を歩いていると建設中の建物がたくさんあるのですが、実はコンクリの壁面などに「ゴミが平気で詰まっている」のを何度も目撃していたからです(笑)
さらに言うなら、香港の土を両手で掴んで水で湿らせてギュッとやっても「土団子」を作ることが不可能です(泣)・・日本の土なら黒土にしろ赤土にしろ湿っていれば両手でギュッギュッとやって丸く固められますが、香港の土は「基本的に岩石の砂利」なので、オレンジ色の岩石砂利を多分に含んでいて一切固められません(泣)
そんなのを自分で試してヤッてみて知っていたので(笑)、中学生そこそこのクセに一丁前に建築技術の心配をしていた次第です・・きっと内地のように地震が来たらここのビルは全て倒壊すると(怖)
もちろんそういう考えは今現在も変わっていません。地震が来たら香港はアッと言う間に壊滅するでしょう・・(怖)
↑上のGoogleMapは現在のMapを拡大撮影したものですが、赤色矢印で指し示している箇所に当時の旧日本人学校が雑居ビルを借りて入っていたと思います。
今現在は取り壊されて新しい高層ビルに変わっているようで、旧校舎の面影は残っていまん(泣)
中学1年生で赴きましたが、2年間住まい日本に帰国した際は神奈川県だったので「当時からスタートしていたア・テスト」と言う県内全校の中学生が一斉に受ける、今で言う処の共通テストみたいな試験を受けていなかった為に、1年留年させられて「中学生活を4年味わった」次第です(笑)・・それでよくいじめられました(笑)
グリーン色の矢印で指し示した場所も今はビル街ですが、当時は低階層の雑居ビル群で1階の店舗には銀行が数件入っていました。
ある日、いつだったかもぅ忘れましたが、それら隣り合っていた銀行が襲撃され、アッと言う間に香港警察の車両と警察官でいっぱいになりました(驚)
犯人の襲撃グルーブは当然ながら完全武装していて、散弾銃はあるは小銃はあるは、もちろん拳銃も携行で本格的だったようです。
数時間しないうちに警察官が何人か打たれて絶命した為に、とうとう「香港軍」に要請が行って装甲車両などが数台到着し、封鎖していました。
しかし、犯人側は挫けずに頻繁に「パーン、パーン。パパパパパッ!」と小銃と機関銃なのか
何なのか分かりませんが、そういう音がず〜ッと聞こえていました。
教室が2階だったので窓からは丸見え状態で現場の物々しさと言ったらメチャクチャ凄い状況でした!(怖)
しかし一番大変だったのは、犯人の襲撃犯側は当然ながら、香港警察も軍もすべて三つ巴で、平気で銃撃戦なので(笑)、いわゆる「跳弾」がひっきりなしに教室内に飛んできました!(怖)
ニッポン人なら誰しも理解していますが、地震が発生した時は教室内なら即座に机の下に隠れますね (地震がない国の人達はそういう行動を執れません)(笑)
まぁ~そんな次第で机の下に隠れますが、何しろテーブル面と4本の脚しか付いていないので「ぜ~んぜん弾除けにならない!」わけですョ!(笑)
それでも他に隠れる場所がないので (教室と言ってもせいぜい8畳ほどの広さで、備え付けの
バスルームまである/トイレ付) いわゆる今ドキのワンルームマンションでしょうかね(笑)
そんな教室は2階なのでめっぽう跳弾の数が多く、ほとんどひっきりなしに「パッ!パッ!」と床や壁面に白煙が小さく立ち昇って、アッチコッチ跳ねまくりです!(怖)・・真面目に正直な話で「襲撃犯はともかく警官は何処向かって打っているんだ!」と真剣に頭にきたのを今でもハッキリ覚えています(笑)
後で聞いて判明した話ですが、結局旧日本人学校が間借りしていた雑居ビル内にも多数の警察官と軍人が入っていて、犯人側に向かって打ちまくっていたようです(笑)・・どうりで教室の窓に弾が飛んでくるハズです (そん時はそんな事実を知らされていなかったので、跳弾が飛んでくる現実に頭に来ていた)(笑)
30分~40分くらいしてからようやく先生が一人教室に来ましたが、既に肩から血が流れていてビックリ!!!(驚) 打たれたのかと思ったら、どうやらかすっただけだったようですが、結構流血します(怖)
その一方で自分たちもしゃがんで隠れていますが、跳弾の犠牲に友達がなってしまい(涙)・・
左足の脛辺りに跳弾が当たり食い込んでしまったようです(涙)
メチャクチャ痛いみたいで相当長い時間悲鳴を上げてわめいていました・・(怖)
当然ながら、シーツなど無いのでカーテンを外して切り裂き、傷口を強めに巻いていましたが
もぉ~教室の床じゅう血だらけです!(涙)
今もその時の友達の悲鳴が聞こえそうです・・。
とにかく数時間もそう言う状況下で、下手に教室を出ると、今度は香港警察か軍に打たれるらしく(怖)・・結局怪我した友達を4時間後にようやく教室から先生が出して救急車に
運んだようです。
当時「文化大革命」直前で相当治世も荒れていて、特にニッポン人は先の大戦の影響で平気で住宅マンションの中のエレベーター内で刺されて、金品を奪われ死亡事件が頻発していた状況でした(怖)
私も下町に行かなければいいものを、生活する上で行くしかなく (食料調達) スーパーに行き
ますが、途中で数回囲まれてひったくられました(笑) お金も帽子も財布も買った食料も何も
かも・・(笑)
結局、そこからはタクシーでないと危なくて帰れないので (途中に危険極まりない地域があるので) タクシー捕まえたくても財布をスラれたと分かると (つまり見せろと必ず言われる) 途端に乗車拒否と言うか、出ろと命令調です(笑)
そもそもニッポン人が嫌われまくっていた時代だったので、乗車拒否どころの話ではありません(笑)
ちなみに当時も今も相変わらず香港のタクシーはどれもこれも「赤色の車体にホワイトの屋根で的士と書いてTAXI」です(笑) さらに当時も今も変わらずに二階建てバスと路面電車が頻繁に行き交っていますが、特に二階建てバスの2階は乗っているとモロ酔います(笑) タイヤの空気圧が低いのか何なのかよく分かりませんが、結構傾くので、香港は基本的に起伏が激しく坂道が多く、しかもカーブはどれもコレも急カーブばかりで、それで右に振れて左に振れてとアッと言う間に酔うです(笑)
そんな時期だったので、自分たちは逃げることも許されず、跳弾が飛びまくる中を5時間ほど隠れていました (後で判明しましたが警察からそのような命令があり、校舎外へ出てきたら打たれて死んでも文句言えないとの事)(笑)・・救急車呼ぶのに大使館経由だったくらいなので、どうりで時間かかったワケです(涙)
これは住んでいた当時から既に指摘されていましたが、当時香港では襲撃事件が頻繁に起きていました。その際、香港警察と最後は香港軍が出張りますが、襲撃犯は最後は民間人に紛れて逃走します。さらに始末が悪い事に、その逃走経路までちゃんと決めてあって、事前にその逃走経路に仲間が潜んでいて、やはり銃撃します。そんな事柄が自前のこととして分かっていたので、襲撃事件が起きたら下手に外に出ると平気で威嚇射撃されます!(怖) それで両手を挙げてフリーズするシグサをしないと、途端に手足肢体の何処かを打たれます (運が悪ければ死亡)。そんな状況だったので教室から出るのは、ほぼ自殺行為に似ていました(怖) ましてや同じ雑居ビル内に警察官と軍人が居るとなれば、先生すら「出るな!」と怒鳴っていたのが即理解できました (後で分かった話ですが)(笑)
普通一般的に考えたら、何よりも先ず最優先で大人は子供達を危険地域から遠ざけて退避させますョね? ところが現地警察も軍も容赦なく民間人を (犯人の一味かも知れないので) 自らの命を守るべく「正当防衛」で威嚇射撃が当たり前だとすれば、そこには当然ながら「日本国内の法治感覚は一切通用しない」のは必死で、そんな事を考えると私にすれば「今のガザ地区内でNGOの国境なき医師団一員が退避できない」のもよ~く分かります。
よくこういう緊急事態が起きた際に、平時のルールや法治を強要する人が居ますが、それが天災ならともかく、このような現地での銃撃戦ともなればそんな概念など一切通用しません(笑)
・・その時最も重要なのは「自分の命を守る算段と仲間を守ること」ですから、そこにルールもへったくりもありません(笑) 何かを奪ってでもしない限り命を守れないなら平気でヤリますね(笑) そういう部分の考え方だけは、もしかしたらあの時の経験から、今ドキのニッポン人とはちょっと違う概念に変化してしまったのかも知れません(汗) 大人しく隠れているのが通用するのは日本国内だけの話なので(笑)、自分含め仲間共々、どうやって命を守り逃げるのかを
先ず一番最初に考えるべきですね (海外の場合)・・その意味で、海外で日本的な物の考え方に拘り過ぎると、結果的に現地人に余計な負担を暗黙のうちに与えてしまう事にもなりかねま
せん (難しい問題です)(汗)
ちなみに当時香港の人種別格付けでは❶ 英国人は当然ながら、❷ 西欧人/米国人などのいわゆる「白人」そして❸ インド人含めた黒人などの人種、インド人の格付が高かったのは英国領だったからです(笑) そして❹ 中国人含めた華僑、❺ 現地人たる広東人、❻ その他ベトナムなどの東アジア人、❼ ミクロネシア人 (シンガポールやインドネシア/フィリピンなどの島嶼国)、そして最後❽ ようやくニッポン人です(笑)
とにかくそこいら中で嫌われていたので(笑)、例えば母と弟とよく3人で飲茶とか北京料理に広東料理、四川料理などなどレストランに行きましたが、とにかく「会話しない」厳守です!(笑) ニッポン人とバレると何が起きるか分からないので・・(怖) そして食べながら笑ったり
会話しているフリをしつつ(笑)、時々指さしたり払い除けたりのシグサを織り交ぜて「現地人風」を装いました(笑) まぁ~大抵の場合で現地人の「マギーちゃん」と言う、当時で20歳代の女の子も同伴だったので、ヤバい時は全て彼女が話してくれましたね(笑)・・いつもマギーに「可愛い!」と胸ギューされて苦しかったのを覚えています (体重90㎏超の巨体でした)(笑)
襲撃現場の周囲はもぉ~民間人だろうが何だろうが関係なくブッ倒れていて、しかも血だらけです!(怖)
犯人が何人居たのか忘れましたが、相当抵抗が強くて、最後は装甲車の砲塔でブッ放して銀行モロとも破壊して犯人を殺したようです。装甲車両と言っても、何とかと言う軽機関銃を装備しているだけで、砲塔がなく、仕方なく英国進駐軍が4時間くらいしてやっとの事で到着し、確か75㎜砲だったと思いますが、ブッ放して事件終了した次第です(笑) 手榴弾も行き交っていたくらいなので (香港警察が手榴弾使うかぁ~?)(驚)、封鎖していると言っても駐車してある車は黒煙上げて燃えており、ガソリンの臭いとかマジッで目がしみる状況でした(涙)
よく思い違いされますが、このような状況下で例えば煙幕弾を投擲してその間に襲撃犯に接近すると言う、まるで映画のワンシ~ンみたいな話が出ますが(笑)、・・コレ、違うと思います。何故なら。当日も同じでしたが、煙幕を張ると相手にこちらが見えないものの、こちらも相手が見えません(笑) つまり両方共に視界を奪われるので、犯人側は余計に煙幕内目掛けて打ち込んできます (接近されるのが分かるので)。 従って香港警察も軍も手榴弾投擲は最低限に絞り、たまたま駐車していた車が炎上してしまったので、当方もその点がず〜ッと不思議でした (数
多く駐車していた車が銃撃されるだけでほとんど炎上しなかった/犯人側もそれを理解していたのかも知れません)(笑)
なおその間に現場では十数人死亡者が出ていて、負傷者はその2~3倍に上ったと思います。
きっと戦場に近づくとあんな音が聞こえてきて、爆発音も何発か聞きましたが、そう言う時の音って、意外と映画みたいな爆音だったりしません(笑)
前述のとおり、機関銃でさえ「パパパパッ!」程度ですし、爆発音だって「ドカ~ン!」ではなくて「ドン!」と、むしろ少し遅れて「振動が伝わってくる」みたいな爆発です。
教室の窓は四角いのが4枚全面に渡りスチール製のシッカリした枠付きでしたが、それが当然の話しで、だいたい5階までは強盗が入るのでそういう窓枠を使い、、且つガラスには金網が入っていました(笑)・・教室内はその割れたガラス片もあって、とても這いずり回れる状況ではなく、私も掌と膝や脛に切り傷を幾つも残しましたね (結構痛かったです)(涙)
従って教室内では最初はデーブルの下に蹲りましたが、意味がないと考え外に出て、結局皆で膝を抱えてしゃがむような感じの格好で、アッチにトコトコ、コッチにトコトコ・・みたく、可愛く列を成して移動していたのを覚えています(笑)
でもそれをしないと跳弾が集中的に飛んでくるので当たるですョ!(怖) 友達の誰かが言いましたが、定期的に跳弾が飛んできた場所に移動したらどうか?・・と。その根拠はもぅ飛んできた場所には飛んでこない・・らしいです。ところが別の女の子が (頭が良い子) いや、射線通ってるんだからその場所は拙いョ!・・と。それを聞いてさすがすげぇ~と感心したのも覚えています(笑)
きっとこういう子は戦場に赴いても生き残るタイプですョね???・・当方などはいの一番に人間の盾になって死んでいく組に入るほうです(笑) まぁ~戦争映画でも「現場の緊迫感盛り上げの一つにはなるか」的なその他大勢のエキストラの一人で終わりです(笑)
もちろん外のベランダと言っても、たいした奥行きはなく、せいぜい40㎝ほどの空間でしたが、その手すりには「昔で言う処の鉄条網」が巻かれている始末です(笑)・・何しろエアコンの室外機が設置できなくて、平気で外壁にブラ下げていた時代です (今でも下町に行くと十分そう言う光景のビル群が立ち並んでいます)。
ちょっとした押井監督の「攻殻機動隊」みたいな(笑)、あのシ~ンですね・・アレ、本当に香港をモチーフにしているらしく、上空を飛ぶ旅客機も、まるであんふうに近距離に見えて轟音が凄いです(笑)
何も聞いてなければ、どうしてこんなにそこいら中に刑務所みたいな建物が林立しているのだろうかと思ってしまうくらい本格的でしたね(笑)
↑今でこそとってもキレイな店舗ビル群に変わりましたが(笑)、当時はこの角度で見ると銀行が2軒並んでいて、そのクセ入り口の鉄扉にはガードマンは1人が座っているだけで、持っているのもショットガン1丁だけですから、アッと言う間にヤラレて椅子の横に血だらけで倒れていましたね(怖)
確か一番最初に10発くらい聞こえていたので、少なくともそのうちの半分は打ち込まれていて即死だったでしょう (ショットガンの音は聞こえていない)(涙)
懐かしい角度で町並みを見られるので、本当にGoogleMapって楽しいです!(笑)
(但し角度的には2階から見ていたので、もう少し上方向からです)
ちょうど一番奥の店舗群前の道路に、バタバタと多くの人が倒れて身動きしなかったのが目に焼き付いています(涙)・・一般市民や警察官ですが、どう言うワケか香港軍の軍人は一人も
倒れていなかったです。突撃させられていたのは専ら警察官だけだったのでしょうか?
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結局、後にも先にもその時だけしか銃撃戦を味わっていませんが (それが普通は当たり前ですが)、教室内で非常に恐怖に戦いていた時間は意外にも僅か30分くらいで、残りの数時間は友達との会話や「ちょっとアッチに移動しよう」とか、跳弾が飛んでこない場所を探してアッチコッチ移動していたのを覚えています(笑)
とは言っても後から考えて、そもそも跳弾が飛んでくる方向が決まっていたワケでもなく、しばらく集中的にパシッパシッと白煙が立ち上ると、今度はこちのほうに集中するとか、しないとか、いやアッチだ!とか・・そんな話に皆で夢中になっていたのが、今考えるとオモシロイ精神状態です(笑)
何処に隠れていても教室の広さが広さなので当たる時は当たると、全員でそう話し合って覚悟を決めていたのだから、中学生と言えども状況に対する即応性はたいしたものだと、今考えると感心している始末です(笑)
よく近年になって日本国内でも言われますが「今ドキのニッポン人は平和ボケしていて全く
戦えない!」と(笑)・・でも、コレ、私は違うと思います。少なくともあの時、中学1年生ながらも死を覚悟して、できれば痛くないのがいいとマジに望んでいたのを覚えていますから、今ドキの若者だろうが何だろうが「イザッとなれば今のニッポン人だって十分ちゃんと戦える!」と信じてやみません。
ちなみに、どう言うワケかトイレは汚くて誰一人隠れなかったのが印象的です (ちゃんと扉が在る)(笑)・・お掃除のおばさんが居ましたが、掃除とは名ばかりでブラシでただ床を撫でているだけなのを皆知っていたので (臭いも凄かったし)(笑)、死ぬ時はそんな場所で死にたくないと誰かがポロッと言っていたのを覚えていますね(笑)
そう言う意味で、本当に日本の社会環境と言うのは素晴らしいのだと今考えても思いますね(笑) 何処に行っても汚いトイレなど見たことがありませんからね(笑)
ペニンシュラホテルでホテル内のプールに入ろうと忍び込んで発見され、裸のまま外の道路にインド人のドアマン (護衛/警護) に掴まれて、まるで犬猫のように本当に放り出された事もありました! (結構擦りむいたです/日本人と英語で言っても聞く耳持たず)(笑)
香港唯一の日本のデパート「大丸 (広東語で確かタイユンと発音する)」があって(笑)、そこの前で三角旗を先頭にズラズラ列を成していた日本人観光客 (当時は農協観光グループが流行っていた?) のおばちゃんの肘にぶつかり「あら!汚い!」と言われた事もありましたね(笑)
本格的にハンカチでゴシゴシ拭きまくっていたのを覚えています・・そんなに汚い恰好してなかったのになぁ~(笑) 何しろニッポン人と分かると襲われるので、可能な限り現地人 (広東人) と同じ格好をして出歩いていましたね(笑)
現地香港は広東人が一番多く、パッと見ではそれこそベトナム人の農地での格好に似ていましたかね(笑) どう言うワケか、男性も半スボンでみ~んな仲良く黒色スボンだったのを覚えています。
体育の授業では校庭が無いので(笑)、近隣のスポーツ会場 (とは名ばかりで草茫々の単なる広場なのにシッカリ入場料をとって時間貸しでした) で現地の広東人の中学生と一緒でした(笑) するとですョ・・起きるんです!(笑) まるで香港映画みたいなシ~ンが!(笑) 広東人は平気で私達を指さして何かわめいてきますから、いわゆる香港映画で頻繁に出てくるシ~ンで、相手に対して抗議したりする時に指差しで言うだけ言ってから、その差し出していた指を上にフイっと振り上げますョね???(笑) あれをやってましたねぇ~。んで私達も体育着を着たまま整列し「イチ、ニー、イチ、ニー」と隊列を組んで走りますが、すると向こうも急に隊列を組み始めて「ヤー、イー、ヤー、イー」と大声で走り始め、それこそスレ違う時は互いに目をそばめて威嚇状態だったのを覚えています(笑)・・今思いだすと、とてものほほんとした気分に浸れますが(笑)、当時は女の子も含めてみんな喧嘩開始覚悟だったのを覚えています (普段の生活で
それほど嫌がらせを受けていたから/日本人とバレると金額は数倍に跳ね上がりますし、下手すれば叩かれて帰れと命令調です)(笑)
後で判明した話ですが、広東人はそもそも教育上「規律を与えられたり守ったりする感覚を養っていない」らしく、結局戦時中に進駐してきた日本軍によってそう言う「規律遵守」の考え方を教え込まれて、ようやく「隊列を組んで走る」事を知ったそうです(笑) 私が住まっていた当時、世代的に自分達の親世代~祖母世代が戦争経験者ですから、それで隊列を組んでスレ違う事が適っていた次第です・・いろいろ知るとまた過去の思い出も感慨深く変わりますね(笑)
そんな事柄を思い出しましたね・・(笑) たわいないお話で大変失礼しました。