▼ 安倍晋三元総理が亡くなりました・・

安倍晋三元総理が亡くなりました・・。

手製の銃で襲撃されて亡くなりました。

今まさにどうしようもない喪失感とカオスの中に閉じ込められてしまった想いの中に居ます。

YouTubeをチェックするとやはり予想したとおりこの事件をアッと言う間に動画にしてアップしている人達が居ます。

単に事件を客観的に流布しようとしているようには見えません・・。

この事件に対しまるで襲撃されて当然の如く発言している人達を敵視して抗議しているYouTuberも居ます。

しかし私はそのいずれも違うと思います・・。

人として自らを律する事ができない人達が現実に今のニッポンにも存在する事が明らかになりそれはかつて起きた衝撃的な事件であるオウム真理教による数々の事件を鑑みても明らかであり、相変わらず今のニッポンでもこのような状況です。

しかもさらに悪い事に今のこのタイミングで (事件が起きてから僅か数時間のタイミングで)、個人の犯行ではなく組織的な襲撃事件とかYouTubeで「〇〇〇えんちょー」なる人物が数多くの動画をアップしています。

確かに年間で億単位の収益となればまさに稼ぐ為の手段なのでしょうが・・そういう人間性に相当な違和感を感じ吐き気を催します。

個人の犯行なのか組織的な犯行なのかは私にすれば問題になりません。

私にとって安倍晋三元総理が本人の意志に反して亡くなったその現実が問題なのです。

安倍晋三元総理を支持していたとか否かとかそういう立場で物言っているのではありません。

そんな事はこの期に及んで関係ない話でしょう?

少なくとも世界の先進国に対してニッポンの指導者/首相として在籍していた中で数多くの実績を残してきた政治家に対しこのような銃撃/襲撃と言う行為で命を奪う事に一にも二にも吐き気しか覚えません!

その事実の周りをあ〜だこ〜だ脚色してここぞとばかり稼ぐ精神性に相当な違和感を感じ、そこに乗じてコメントしている輩に対しても相当な嫌悪を感じています。

いったいどうしてこんな時代になってしまったのか・・。

一つにはこうやって自らの意見を容易に述べられる/告知できるネット環境が整ってしまった現実が大きく影響していると思っています。

昔ならせめて意見を述べるには何処ぞの街で村で周囲の聴衆を相手に述べるしか方法がなかったでしょう。

どんなに異議申し立てしたくても手紙でやり取りするしかなかったでしょう。

今はサクッと瞬時に自らの考えや思いをこのように述べる手段が確立されています。

その時・・はたして自らの意見にみんなは同調するのか否か、聴衆の思いを感じられるのか否か、それらは全て「コトバで綴られたやり取りだけの世界」として認知するだけです。そこに数多くの「いいね」が附随するのか、それを以てして自身の正当性を確信し得たのか。

細かい事は分かりませんが (私はLINEやツイッターなど大キライなので) 何か数百年を経て当たり前だった意思疎通の方法がヒックリ返ってしまい正直なところ唖然としている段階です。

これは実は自分の家族でも起きている現実で、私以外妻も子供達も (3人居ます) 全員が対極に位置していてサクッと短文でやり取りしています(笑)

その反面私はとても短文でやり取りできません・・(笑)

何処かのコマーシャルで観た記憶がありますが、孫の女の子がおじいちゃんのスマホとのやり取りに温かみを感じるセリフがありました。今ドキの若者であるその女の子の立場からすれば何処となくズレまくりのおじいちゃんからのLINEメッセージに慈しみを感じこの上なく大切にしている思いがそのまま伝わるコマーシャルだったと認識しています。

そういう一面もあるのかと今まで否定的だった私の考えはアッと言う間に一新されましたが(笑)、しかし昔だったらそれらワンシ〜ンでさえ「それなりの時間をかけてやり取りしていた手紙の世界が当たり前だった」と逆に強く思い知った次第です。

自分で手紙を出したにせよ、その返事が届くまでの時間にあ〜だこ〜だいろいろ考え及んでいた事が当然だった時代からすれば・・今ドキのこの環境はまるで異世界の話であって、はたしてそこに「人間性の変化が附随したのか」との疑念を抱いているところです。

なかなか難しい命題です・・。

安倍晋三元総理のご冥福を祈ると共にこれまでの情熱と行動力を決して無下にせず、良くも 悪しきも拘らずにまずは広くその存在を認めるべきと思いました。そこから次へと進めば良いのです。

人として律する想いをどうか今ドキのニッポン人は忘れないでほしい・・先達がかつてして きたように。自らのたった一つしかない命を賭した人達も居れば、本意に反して命を奪われた人達も居て、やっとのことで生き存えても苦しく壮絶な残りの人生を駆け抜けていくしかできなかった人達だって居ます。

人の世の人生とはきっとそういうものであって、その中に公平も不公平もないのだと私は最近強く感じています。

自らの人生の終点を感じればこそ、せめて自分なりに残りの時間を大切に生きたいと思います。その時その時間を奪う権利は何人にも在らず生きる尊厳は自らの生誕を以て知るべきと強く感じます・・人の命を奪うなら先ずは自らの命を奪ってからにしなさい!